講師エッセイ~ほびっと村と私

第4回 「ほびっと村と私」書き手方条遼雨(「りきみをぬく」「天根流剣術」「方条解釈・甲野術理」講師)

 ほびっと村とは不思議なご縁で、私の師匠である甲野善紀先生が、35年以上前にオープンな講座を初めて開催したのがこの場所だそうです。

 時を隔てて、私も同じほびっと村学校で「りきみをぬく」という教室の講師として歩み始める事となりました。

もう一つ不思議なご縁は、私のもう一人の師匠である中島章夫先生が、ほびっと村を立ち上げた「きこりさん」と、同じ和光大学ご出身だという事です。

 中島先生からは、「自分の出た大学は面白いところで、学校に住み着いている学生がいるんだよ」というお話しを聞いていました。

 後に知ったのですが、その「学校に住み着く」伝統を作ったのがきこりさん達で、そうしたお仲間が、ほびっと村の創立メンバーとなったそうです。

 その中島先生も私がお誘いする形で、2020年から「中島章夫の動作術」というクラスをほびっと村にて受け持って下さっています。

 何かに引き寄せられるように来たほびっと村学校ですが、「りきみをぬく」も2021年の3月で、通算100回目を迎えました。

 思えばここから様々な人と出合い、色々なつながりも生まれました。

 私の教室はもちろん、この学校自体も代表の高橋ゆりこさんがいなければここまで存続する事はなかったと思います。

 単純に「採算」や「経営」といった経済の論理だけでは動かないゆりこさんだからこそ、時代時代の荒波の中でも、極めてユニークなポジションにあるカルチャースクールを守り続ける事ができたのでしょう。

 その中に関わらさせていただいている一員として、ゆりこさんには改めて感謝の念を申し上げたいと思います。                               2021/03/31

第3回 『わが心のほびっと村』書き手:島田啓介(翻訳・執筆家、マインドフルネス瞑想ファッシリテーター)

(わが心のジョージアを聴きながら読んでいただくとたぶん最高)

ほびっと村との再会は2019年11月の初めだった。経済面で大変だと友人から聞いたとき、何をおいても行かねばとぼくの中の本能の声が叫んだのだ。昔懐かしい仲間が集まっていて、3階のほびっと村学校とナワプラサード書店を何としても継続せねばと、ある者は息まき、ある者は深く思いをこらし、またはうつむいて考えこんでいた。

ぼくが群馬の田舎から上京し、大学生として都会暮らしを始めたのは1976年のことだ。ほびっと村の開所と同時期である。中央線西荻窪駅から徒歩五分、コンクリート三階建ての古びたビルディング。そこにどれだけ通ったろう。

「有機野菜を売る1Fの長本兄弟商会、その奥にクラフトのジャムハウス、2Fのレストランバルタザール(旧満月洞)、そして3Fのフリースクールほびっと村学校と、本屋ナワプラサード(旧プラサード書店)」、平たく言えば、カウンターカルチャーの牙城、日本にオルタナティブな価値観と生活術を時代に先んじてもたらしたコミュニティである。

写真を見るとまるでおとぎの国の城のよう、小人族のほびっと荘のようにも見える。ぼくは大学途中で病気にかかってドロップアウトしたのち、故郷に帰ってもすることがなかったのでしばらく東京にいた。その頃~80年代前後~に、ぼくは中央線界隈に頻繁に出没した。中央線カルチャーが、「はぐれ者」にはやさしかったからだ。

そのころストリートで歌い、やがて吉祥寺の「ぐゎらん堂」という小さなライブハウスに出入りするようになった。やがて、プロの前座をするようにもなる。そのころの経緯は、少し著書でも触れた。日本のカウンターカルチャー発祥の地、ほびっとに行くようになったのもそのころだった。東京というつかみどころのない大都会で、そこには親しみやすい、少し昏いような懐かしい記憶が渦巻いていた。それが何なのかわからない。うつを患っていたぼくの、精神的治療になったこともたしかだ。  

働いていた人たちはぼくよりずっと上の、本格的なヒッピー世代である。ぼくにとっては彼らが気難しいインテリに見えて、なかなか近寄りがたかった。当時のぼくはむしろ、ライブハウスの歌い手たちの中にいた。ほびっと村への扉になったのは、創立メンバーの一人、詩人の山尾三省である。彼と親しく付き合うようになり、カウンター世代の間口が広がった。ほびっと村3階のプラサード書店のキコリ氏は、相変わらず髭もじゃで得体のしれない気がしたが、そこでしか入手できない本をずいぶん買った。今では入手不能の三省の「聖老人」の初版は、そこで買ったものだ。

書店でめずらしい本を手に入れ、2階のほんやら洞(当時の名)で食べたり飲んだりし、たまにはほびっと村学校での催しにも参加した。たぶんミニコンサートのようなものだったと思う。そうして、そこは東京での数少ない「居場所」になったのだ。

長く離れていた時期もある。ぼくが東京を離れたり、外国へ行っていたりして、再びつながったのは95年にティク・ナット・ハンの来日があった時、「ナワプラサード」と名を変えた書店の店主になった高橋ゆり子さんとの付き合いが始まってからだ。女性でキコリと比べてそんなに恐そうじゃないから、という理由が大きかったかも。そのころはまだぼく自身の本を置いてもらうことになるとは、少しも思わなかった。未来のことなんてまったくわからず、ぼくは自分を愛せなかった。その後大きな試練に会うことになる

(写真は瞑想の原点となった94年プラムビレッジ@フランスと95年のティクナット・ハン師の来日時)

世紀が明けてだいぶたってからだ。昔のぼくが今のぼくに「合流」したのは。パラレルワールドみたいなものがあって、ぼくらはどこかのチャンネルに属している。選ぶのは自由なはずだけれど、あまりにも縛られているので、自らそれがわからない。そういう年月を長く過ごして、少しずつ分かって来た、世界は自分が作っているのだと。そうしてぼくは、ほびっと村と何度目かの出会いを楽しんでいる。今度こそ正確に「楽しんでいる」と言える出会いを。

2019年11月の「再興ミーティング」がきっかけで、ぼくは仲間たちと「ほびっと村瞑想会」を立ち上げ、いつの間にかかつて憧れていたほびっと村学校の講師になっていた。時代は巡り時は流れる。かつて先輩たちが敷いてくれたオルタナティブの道を、今度はぼくたちが引き受け続けていく番だ。群馬生まれのぼくの中には、ここ西荻の地につながる「無頼の血」が流れていたのだと自覚する。

(写真は2019年末から2020年3月までのほびっと村学校での瞑想会)

コロナの時代に入り、学校の畳のスペースはまだ以前のようには使えないが、仲間とともに分担して瞑想会は続いている。現場のクラスは回数と参加人数を減らし、その代わりインターネットで瞑想会と対談番組を始めた。いろいろ工夫しながら実践をつないでいくことに意味がある。それによって、今は会えないが仲間とのつながりが育っていく実感がある。

今したいなと思うのは、「祭り」であり「祀り」だ。そのうち直接会えるようになったら、火を焚き、靴を脱ぎ、「泥足のままで」喜び歌いたい。そして、いのちの寿ぎをともにしたいと願っている。        2021/02/03

第2回 『ほびっと村学校で育てた活元会』 書き手:曽我部ゆかり(活元コンサルタント、産後ドゥーラ、ほびっと村学校講師)

※画像はいずれも、2019年以前のものです。

自発性を育てる場

 「母と子の活元会」をほびっと村学校でレギュラークラスとして開催させていただくようになり、はや5年になろうとしています。赤ちゃんの時から参加してくださっているお子さんは4歳、5歳となり、当時、幼児だった上のお子さんは小学生に…。見様見真似で邪気を吐いたり、背中に手を当てたり…。まさに門前の小僧の手習いで、いつの間にかすっかり整体法の初歩を身につけています。

 さらには、私の説明をフルコピーして会の進行をサポートしてくれる女子も登場しました! しかも、終了後は箒で掃き掃除までしてくれる…。お願いしてやってもらっているわけではなくて、自らやってくれるのですよ。私の会は子どもたちの自発性を育てる場にもなっているようで嬉しいです。このように若いお母さんとそのお子さんたちと共に愉しめる場を与えてくださったゆりこさんには心から感謝しています。かつて本部講師のロイ先生(野口裕介先生)が「会を育てる」ことの意義を説かれていましたが、その意味を今となって改めて感じています。

子育てこそが整体の一番の勉強

 私が本部道場で本格的に整体コンサルタントへの道を目指して年間講座で勉強をはじめたのは21年前のこと。ところが翌年に妊娠したのです。子を授かったことはもちろん嬉しくありました。でも、折角、コンサルタントを目指して勉強をはじめたのに中断しなくてはならない、という不安混じりの焦りを感じていたのもまた事実。そんな私の思いを察して師匠がかけてくださった言葉が、今日の私を支えています。

「きちんと勉強に取り組んだことで身体が整ったのですよ。妊娠出産子育てこそが、一番の整体の勉強ですよ」と。ですから、私の会は「母と子の活元会」なのです。

活元運動の魅力が伝わって

 子育てに愉気を…という想いと共に活元運動を皆で一緒にやりたいという想いがありました。それは愉気と活元運動は「ひとつらなり」だからです。活元コンサルタントの資格をいただいた時から、その思いは一貫しています。

 ただ、活元運動には、ヨガやピラティスのようなお洒落な要素はまるでないし、また、有酸素運動のようなわかりやすさもありません。ダンスエキササイズのような華やかさとももちろん無縁…。格闘技のようなキレの良さもありません。

 無意識の働き、錐体外路系の運動という説明や、「身体が自然に動きだすのを待つ」と言われて、何かオカルト的なイメージを持ってしまう方もいらっしゃるようです(笑)。また、無意識の運動ですから、普段自分が意識していない赤裸々な自分と向き合うことにもなります。そのことに抵抗を感じる方もいらっしゃるのは確か。

 長い整体生活の経験から、そうした面も熟知しているため、「若いお母さんたちに活元運動を好きになってもらえるだろうか…」と、少し不安があったけれど、「いや、私が大好きな活元運動なんだからきっとその愉しさは伝わるはず」と思ったり…。そんな葛藤を抱えていたわけですが、ゆりこさんの後押しもあって、会はレギュラークラスにしていただけたのでした。

 それに、活元会を開催するにはまさにここしかない、という思いもありました。隣のスペースのナワ・プラサード書店では全生社の野口晴哉先生の著書が揃っているのですから。ここまで常設してくださっている本屋さんを私は他に知りません。

いつしか活元運動が好きになっていた

「母と子の活元会」は一時期人気講座に育ち、多い時には20組の母子の参加もありました。ほびっと村学校の畳間をハイハイするたくさんの赤ちゃんたち…。私が活元運動の準備運動の「邪気を吐く」のお手本をやってみせると、赤ちゃんたちが一斉にハイハイしながら突進してきて、ポカ~ンと私を見上げている姿が可愛くてたまりませんでした。そんな赤ちゃんたちも、2歳にもなると皆、大人と一緒に準備運動をするようになっていきました。「邪気を吐くー腰を捻るー延髄に気を集め肩甲骨を寄せる」という一連の流れをすっかり覚えています。そんな子たちもいまは園児、児童と大きくなって、また生まれたばかりの弟さんや妹さんも新しく加わっています。

 もちろん子どもたちばかりではなく、若いお母さんたちも「すっきりしたい」と会を楽しみにしてくれるようになりました。いつしか活元運動が好きになってくださっていて、これには私の方が驚いたほどでした。

コロナ禍だからこその活元運動

 2020年は緊急事態宣言が発令されてからの一月間、そしてその後の世間の厳戒な空気の中で、いましばらくは会をお休みしていたのですが、そんなある日、会のメンバーから、「ゆかりさんに会って話がしたい。毎日、息が詰まってしまうから活元運動がしたい」とリクエストをいただき、会を再開することにしました。

 いまはレギュラーメンバー限定の小さな単位で開催していますが、かえって密度の濃い内容を伝え実践にうつすことができるようになりました。集中の型ということを考えた時、奥を探究し、鍛錬することが求められる世界…。そして本部道場でなくほびっと村学校の私が担当するクラスでも、このメンバーとならば探求を深めることができる…そのことを実感できた一年となりました。

 2021年、コロナが終息した暁には、クラスをレギュラーメンバー限定の会と新しく取り組みたい人たちを迎えられる体制を作りたいと思います。活元運動のように、流動的に変化し、次のステップに移っていくことも大切ですから。

↑「2017年の母と子の活元会より」

コロナ禍の産後ケア

 私の日常の仕事はアウトリーチ型産後ケアを専門とする産後ドゥーラです。一般社団法人ドゥーラ協会に認定を受けたのは8年前…。これまでに500人に近い産後ママと赤ちゃん、そのご家族のサポートをさせていただいてきました。

 昨年、コロナ禍で迎えた妊娠出産は、ママにとっては、とても厳しいものでした。まず、産前の健診も妊婦さん一人しか病院に入れないし、普段なら行われているはずの両親学級も中止。お産の時の立ち合いにも入院中のお見舞いにも制限があり、まさにママは孤独なお産を余儀なくされました。しかも、ご実家から来てくれるはずだったお母様お父様が上京できない。里帰り出産も東京からは受け入れてもらえない。という産後も孤立した状況が続きました。

 私はもちろん仲間の産後ドゥーラたちも緊急事態宣言中は自宅待機、解除後は感染予防を徹底的にした上で、ママと赤ちゃんには接触しない形でのサポートに限られました。

↑2017年のサポート風景

子育てのアドバイザーとしてのニーズ

 ところが、5月ゴールデンウィーク以降は、ご依頼が急速に増えました。孤独な育児に限界を感じてのことだと推察しています。

 また、リモートで在宅のパパに沐浴の仕方をはじめ、それこそ、おむつの変え方、ミルクのあげ方、抱っこの仕方、寝かしつけの仕方…etcを指導して欲しい、というご依頼が急速に増えたのです。本来なら保健所や産院や病院で行われているパパ学級や両親学級で習っていたことを、ドゥーラが役割を担うことになったわけです。加えて、抱っこ紐のこと、赤ちゃんのお洋服のこと、お部屋の環境、母乳によいお食事のことなどもお伝えしてきました。

パパが家にいる安心感

 さらには、ママへはどんな言葉をかけたらよいか、あるいはどんな言葉をかけない方がよいか、などなど、メンタルな面でのアドバイスもいたしました。リモートワークでパパが在宅中、力を合わせて育児に取り組んでいく若いご夫婦を支えながら、この状況も決して悪くはない、と思うことも増えていきました。

 なぜなら、産後ママにとっては、パパが家にいてくれるのは何より気持ちが落ち着くからに他なりません。

 先日もあるお母さんとお話ししましたが、産後一、二か月は下手をすると仕事に行ったパパが帰ってくるまでは、一日中大人と話す機会がゼロになってしまう…。お一人目のご出産時に、そのことがこんなに辛いとは思わなかったと話してくれました。お二人目、パパが在宅中という状況は、そんなママたちの不安を解消してくれる一因ともなっているようです。

ドゥーラだからできること

 昨年は妊娠中にメンタル面の病気を発症されたママをお二人ほどサポートさせていただきました。パパは育児休暇をとり、ママを支えながら、懸命に育児に取り組んでいました。ママに負担がかかり過ぎないように、交代制で赤ちゃんのお世話をして、一人はその間に睡眠をとる…というローテーションが確立されていきました。

 母乳についてのご相談も受け、ママの負担にならないような方向にもっていき、パパも哺乳瓶で上手に授乳できるようになりました。沐浴もパパが担当し、おすすめしたスリングも上手に使いこなせるようになりました。

 ある日、訪問すると、パパが冷えないように腹巻をして、スリングで赤ちゃんを抱っこしていました。その姿を見て「産後パパ」と私が感心していたら、ママも加わって三人で笑いました。だんだん、ママにもゆとりがでてきて、赤ちゃんを抱っこしながら楽しそうに鼻歌を歌いながらあやしている姿を見た時には、私も感動して胸が熱くなりました。お宮参りの準備で、赤ちゃんの手形をとるお手伝いをしたり、保育園が始まってからの生活を考えたり、共に楽しい思い出ができました。

 コロナ禍は不安の方が大きく辛い思いをされていらっしゃる方も多いはずですが、このような時だからこそ、産後のご家庭に入ることができ、寄り添うことができる産後ドゥーラとして、お役に立てていることを嬉しく思い、やり甲斐を感じています。                                       2021/01/10

曽我部ゆかり 

公益社団法人整体協会認許活元コンサルタント/一般社団法人ドゥーラ協会認定産後ドゥーラ/特定非営利活動法人遊びと創造協会認定おもちゃコンサルタント/フリーライター

Yucari Sogabe

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第1回『息をきく場所』  書き手:櫻井郁也(ダンサー、舞踏クラス講師)

 僕にとってここは息をきく場所です。踊りのクラスを開いているせいか、ここに来ると、いろんな呼吸がきこえてくるような感じがしてなりません。きっと、いろんな人の息が染み込んでいるんだと思います。ここには面白い歴史があり、色んな人の気配や温度が残っています。落ち着く場所です。

 自由学校とでも言えばいいのでしょうか、ちょっと寺子屋みたいかも。あるいは道場みたいな、寄り合い所みたいな、いや、そのどれでもなく、そのどれもでもあるのかしらん。ふだんは何かしらの講座やレッスンが行われていますが、トークやミニコンサートにも、プライベートな話し合いなどにも、いいかもしれません。畳のお部屋の白い天井には月や星が浮彫りになっていて廊下の窓は星のカタチ。数人でのんびりするのも良し、みんなで熱気(あ、いまはちょっとがまん?)も良し、という空間です。

僕がここで舞踏クラス〈踊り入門〉を始めたのは2007年春、前年にポルトガルでおこなったダンス公演とワークショップの指導経験が原点です。遠い国で、人生の一日一日を心から楽しもうとしている人々と出会い、こんなふうに心を開いておおらかに踊り楽しみ合う場を、舞踏が生まれたこの東京にも開きたいなあ、と思ったとき、この「ほびっと村」のお部屋がふとアタマに浮かんだのです。

 「ほびっと村」とは3回出会いました。上京スグ、初めての子育て、そして、上記のクラス開講、いずれも僕には変化のときでした。初めて訪れたときは、このビルの階段が気に入りました。1階から3階までの手すりに隙間なく、びっしりと珍しいチラシが吊り下げられていました。あらゆる種類のワークショップの、図書の、映画の、舞台やライブのチラシ。それを手に取って眺めているだけで、ちょっと世界が広がってくるような感覚がしました。ネットがまだ無くて「街」が情報そのものだった頃、たしか1983年の春でした。寺山修司が亡くなり、土方巽が最後の舞踏シリーズを始め、新宿では唐十郎の赤テントがまだまだ評判で、芝居も踊りも言論も、いいえ、世の中全体が、良くも悪しくも大きな転換期を迎えていました。2回目の出会いは初の子育てのとき。阪神大震災のあと地下鉄サリン事件が起き、世の中がぐらつき始めていたなかで、安全な食べ物をさがし、信頼できる子育てや生活の智慧をさがしたのです。そして3回目の出会いがクラス開講です。僕はすでに舞台活動をしながらあちこちでレッスンを開いていましたが、上述の海外経験を通じて、よりユルくて、より振れ巾のある、「教室」というより「踊り場」を開きたくて、ここを訪ねました。

 明確でないもの、あいまいなもの、定まっていないもの、ぼんやりしたもの、めちゃくちゃなもの、だけど、なんだか気になるもの、そのような、ある種のカオスに光を当てることができる場所。泣く人も笑う人も、いっしょくたに居ることを受け止めてくれる空間。いつでもフラリと踊りに来れる場所。そんなイメージを勝手に思いえがいて、それでクラスを開かせていただき今に至るのですが、世界はとてつもなく変化し始め、あの東日本大震災をへて、いまこのコロナ禍に直面し、もう大変なことになっております。

 危機をいかに乗り切るか、いかに復活してゆくか、いかに人間らしく手をつなぎ直すことができるか、というこの時期に、あれこれアタマを悩ませながら、この、まとまらぬ文章を書いております。書きながら、思います。ほびっと村学校、この場所で試行錯誤されてきた底知れない学びや遊びや行為や対話について、それらを通じてこの場所に息づいてきた無限無数の思いや言葉について、、、。

 アタラシイ◯◯、とかいう言葉がちまたを跋扈して久しいけれど、世の中はこれからどうなるのかなぁと、すこし不安でもあります。「ほびっと村」も「ほびっと村学校」も、今はとても大変なのですが、これからは、こういう自由のための自由な場所が、本当に必要な時期が来るように思えてなりません。コロナがやわらぎ、本当に色んな人が、一人また一人と集まって、真剣に世の中や人間の未来を探して話し合ったり、楽しく学びを広げていくことができる日に向けて、がんばってこの場をつないでいかなければと、とてもとても思います。ぜひぜひ、遊びに学びに、おいでください!! (以上)                                                          2020/12/19